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ドイツ振動医学推進協会 日本支部

ドイツ振動医学推進協会VFS

このサイト及び推奨書籍には35年にわたる経験に基づいた指摘、アドバイス、解決への糸口が書かれていますが、これが治療家や自然療法を志向する医師に代わるものではないことにご注意ください。
更に指摘事項として、西洋医学はバイオエネルジェティックな振動の効果を受け入れてもいないし、認めてもいません。

パウル・シュミットと共に歩んだパウル・ハイメスが90歳の誕生日

(機関誌インパルス2018年9月号より)
親愛なるパウル!(親しみを込めて、そう呼ばせていただきます)私たちは、私が小さな少年であった頃から知っている。 シュマレンベルクの小さな村アルペで私たちは育った。あなたは両親の農場で、兄弟6人とともに少年時代の一部を過ごした。 このインパルス誌が発行される頃には、もう90歳の誕生日を祝ったことだろう。

トラクトテヒニークとレヨネックスの創立者であるパウル・シュミットを、あなたは非常に早いころから知っている。 レヨネックス社でさらに発展が続いているパウル・シュミット式バイオレゾナンスを推進するため、 1999年に振動医学推進協会が設立された。私はその設立会員の一人で、あなたは最初の会員の一人だ。

あなたの誕生日に合わせて、インタビューをするよう頼まれた。それが協会誌に掲載されることになっている。

「パウル、学校時代、そして仕事をするようになって、どのような道をたどったのか、少し話してくれないだろうか。」

私はアルペ、キュッケルハイム、ヘアシェーデの、同い年の15人の少年少女と共に、アルペの学校へ行った。 そのカトリックの学校にはクラスが一つあり、8学年が一緒に授業を受けた。4年生か5年生のときに、 隣の教会のオルガンが修復された。私はオルガン製作者の手伝いをすることが許され、彼は私が器用だととてもほめてくれた。 1939年には両親の納屋が火災にあった。このことはよく覚えている。機械工になる訓練を受けた後、ハーゲンで機械工学を学んだ。 17歳の時にブリオンの近くにあるグーデンハーゲンに召集された。そこからレマーゲン、そこの橋に行くはずだったのは、空襲のためになくなった。 そのあとはズンデルンの国民突撃隊だ。戦争の最後の日々を過ごしたのは、故郷のアルペだった。戦争はありがたいことに 、無傷で生き延びることができた。私たちの農場にはウマが三頭いた。一頭は戦争に駆り出された。農場に残ったのは二頭だ。 マックスという名のウマは、農場の住人の肩をかむという癖があった。

「奥さんとはどうやって知り合ったのか。あなたにとって家族とは何を意味するのか。」

妻もやはりアルペの出身だ。近くの農場に住んでいた。二人で五人の子供を育てた。家族は私にとって支えであり、頼りになるものだ。私は家庭人だ。

「何か趣味はあったのか。」

住んでいるところにコーラスとスポーツクラブがあった。私はコーラスの会員で、アコーデオンも弾いた。今でも弾きたいとは思うが、残念なことに指が言うことを聞いてくれない。

「動物や植物と特別な結びつきはあったか。」

農家で育つということは、自然と動物と共に生きるということだ。農場にはもちろんウシ、ウマ、ブタ、ニワトリ、そしてイヌが一匹いた。 庭と畑が、人間が必要とするものすべてを与えてくれるというのが、まったく当たり前のことだった。農場と共に林もあって、そこから木を切ってくることができた。 それは建材でもあり、燃料でもあった。いい時代だった。今日のせわしない時代とは、比べ物にならない。

「今振り返って、やり直したいことはあるか。あなたの人生で特に成功したと思えるのは何か。」

今振り返っても、すべて同じにするだろう。過去を振り返るとき、私はとても満足している。生きていくうちにいろいろなことをしたが、 いつも手を使って何かをやってみて、たくさんのことを試し、たくさんのことが成功した。悪い目には合わずに済んできた。

「パウル・シュミットとはどのように知り合ったのか。」

パウル・シュミットは、エーディンゲンのクラインウントビアマンという会社の技術者だった。この会社は農業機器を製作していて、修理もした。 ここでパウル・シュミットと私は、六年間一緒に仕事をしたのだ。会社は経済的に傾く一方となり、パウル・シュミットは会社を去った。 小さなガレージで自立して、1962年にはトラクトテヒニークという会社を創立した。その会社は非常に速く発展し、そんな中で彼は私をその会社に呼んでくれたのだ。 後にパウル・シュミットは、クラインウントビアマン社を買い取った。

「パウル・シュミットに対するあなたの関係は?そして一緒に仕事をするというのは、どんな感じったのか。」

私たちは友人のような関係で結ばれていた。相手の強いところと弱いところが、お互いによくわかっていた。私たちを特に強く結びつけていたのは、 常に新しいプロジェクトを起こそうとする欲求だった。そこで私たちはいろいろなことをやっては試し、改善し、新しくやり直しては、新しいものを作り出していった。 私たちはとても順調に協働してきたと言えるだろう。

「パウル・シュミットはどのようにしてバイオレゾナンスに至ったのか。あなたは人生で、何かをパウル・シュミットから得たか。」

80年代の初め、メシェデの医師であった友人を訪ねたときに、ロッドが手渡されたのだ。ある特定の場所に来ると、それを手で固定していることができなくなると気付いた時、 機械工学者であった彼は自分でたくさんの質問をし、その現象を調べ始めた。ジオパシックストレスが体に与える影響を確認し、その障害を除去し、 障害を受けた体を助ける解決策を探したのだ。そうしてダイポールアンテナが開発された。バイオレゾナンス器の心臓だ。バイオレゾナンスの方向に向けて多くの研究がなされ、 試された。彼は、そしてもちろん私も、そのテーマから逃れられなくなったのだ。パウル・シュミットの研究者魂は、私を初めから惹きつけ、私にもうつり、 私の人生に影響を与えた。1994年にパウル・シュミットは亡くなり、彼の息子のヴォルフガングと私の息子のディートマーが、それ以来レヨネックス社を導き、 開発し、大きく成功している。

「パウル、私たちの会員とパウル・シュミット式バイオレゾナンスを使う人皆に、何か一言言ってくれるだろうか。」

振動医学推進協会の会員とこの方法を使っている人たち皆様に申し上げたいのは、この方法をすすめ、パウル・シュミットのライフワークで人々が健康を保つ、 あるいは健康になることのお手伝いをしてください、ということだ。それが私の大きな望みであり、パウル・シュミットもそう望んでいたに違いないと思う。

ヴィリー・ヘムベルク、アルペ在住

パウル・ハイメス氏は2019年4月16日に逝去されました。
ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

ドイツ振動医学推進協会ドイツ本部の役員














会長兼日本支部長 : ディートマー・マンデルラ(右から2人目)
副会長 :クリスティーネ・ファーバー(左から2人目)
会計 : ハインフリート・ケーニッヒ(左端)
書記 : ヴィルヘルム・ヘンベルク(右端)

研究・実践グループ

ドイツ国内には全部で31のグループがあります。


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